良い自動化は気づかれない──透明性の逆説
うまく機能している自動化は、たいてい記憶に残らない。改札にカードをかざせば扉が開く。検索窓に打ち込めば候補が現れる。決済を押せば手続きが進む。私たちはそれらを「使った」とすら感じない。空気のように、ただそこにある。よい設計とは存在を主張しないことだ、としばしば言われるのは、この感覚を指している。
だが、この「気づかれなさ」は、手放しで称えてよいものだろうか。見えないことには、別の顔がある。何かがうまくいかなくなった瞬間、利用者は突然、自分がいかに多くを見えない仕組みに委ねていたかを思い知る。改札が開かない。候補が出ない。決済が進まない。そのとき初めて、背後にあった機構が荒々しく前景に現れる。
道具は、壊れたときに姿を現す
哲学者が古くから論じてきた道具の性質に、よく似た構図がある。金槌を使って釘を打っているとき、私たちは金槌そのものを意識していない。意識は釘と板に向かっている。ところが柄が折れた途端、金槌は「対象」として急に立ち現れる。道具は、滑らかに働いている限り透明で、壊れたときに不透明になる。自動化も、この道具の宿命を引き継いでいる。
ここに逆説がある。設計者は利用者の負担を減らそうと、仕組みをできるだけ見えなくする。見えなくすればするほど、体験は滑らかになる。しかし同時に、利用者は「何が起きているのか」を知る手がかりを失っていく。順調なうちはそれでよい。問題は、滑らかさに慣れた利用者が、いざ不調に直面したとき、なぜそうなったのかをまったく説明できない、という事態である。透明性が、理解を奪う。これが「透明性の逆説」だ。
見えなさが、信頼を蝕むとき
見えない自動化が増えるほど、人は結果だけを受け取り、過程を問わなくなる。推薦された商品がなぜ推薦されたのか、申請がなぜ却下されたのか──理由が見えないまま結果だけが返ってくると、納得も反論も難しい。滑らかさと引き換えに、説明可能性が失われていく。これは、本サイトで扱った可観測性が、システムの内側だけでなく、利用者との関係にも必要になるという話でもある。内部の流れを追えるようにする工夫は、対外的な説明のためにも効いてくる。
一方で、何もかも見せればよいわけではない。背後の処理をすべて表示すれば、利用者は情報の洪水に溺れ、肝心の操作に集中できない。通知疲れで論じたように、過剰な開示は過少な開示と同じく、人の注意をすり減らす。見せすぎれば煩わしく、隠しすぎれば不安になる。その間に、ちょうどよい一点があるはずだ、というのが設計の難しさである。
適切な不可視性へ
目指すべきは、完全な無存在ではない。順調なときには背景に退き、必要なときにだけ前に出てくる──そんな「適切な不可視性」だ。たとえば、処理が滞っているときにはその旨を静かに知らせる。判断の理由を、求められれば示せるようにしておく。普段は黙っていても、いざとなれば説明できる構えを残す。見えなさそのものを否定するのではなく、見えなさに非常口を設けておく、という発想である。
よい自動化は、気づかれない。けれどそれは「永遠に気づかれてはならない」という意味ではない。順調な日々には存在を忘れさせ、つまずいた瞬間にはきちんと姿を見せる。その切り替えを担えるかどうかに、設計の成熟が表れる。滑らかさを誇るシステムは多いが、滑らかさが破れたときの振る舞いまで設計されたシステムは、まだ少ない。見えない仕組みに私たちが安心して身を預けられるのは、それが見えなくなれるからではなく、必要なときに見えるようになれるからなのだ。
参考資料
- Mark Weiser によるユビキタス・コンピューティングと「消えゆく技術」に関する論考(一般的な引用)
- Nielsen Norman Group によるシステムの可視性とフィードバックに関する解説 — nngroup.com
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